シアターリミテ

シアターリミテ|京都を拠点に活動する演劇集団

シアターリミテ

お客様の声 〜茨城公演〜

  • 公演の様子

    Photographer:Masami Kikuchi

    京都で活動する演劇集団「シアターリミテ」の『カミと蒟蒻』。2016年の第22回劇作家協会新人戯曲賞で最終候補作に残った作品である。太平洋戦争で実際に遂行された、気球に爆弾を載せて米国本土まで飛ばす「風船爆弾」作戦を題材に、正気と狂気の狭間を行き来する人間たちを描く意欲作だ。

    シアターリミテの主宰であり、作・演出・出演と三役をこなす長谷川源太氏は茨城県ひたちなか市の出身。ついでに言えば自分の高校時代の同級生である。本作では風船爆弾が茨城県沿岸から飛ばされたという事実に基づいた設定もあり、水戸でのツアー公演が実現。9月14・15日、「稽古場 風」で3回にわたり上演された。

    和紙とコンニャクで作った気球で太平洋を越え敵国を攻撃しよう、という荒唐無稽な作戦に国家が大真面目に取り組んでいた事実と、その事実を滑稽と考えない当時の人々の様子を重ねて描くことで、人や社会の思考はどこでズレていくのか、という問題を観る者に突き付けてくる。

    強いメッセージ性を放ちつつも、戦争批判、歴史の紹介だけにとどまらない。前述した劇作家協会新人戯曲賞の講評で、劇団M.O.Pのマキノノゾミ氏は「超がいくつもつく傑作となり得る可能性を秘めている」とそのポテンシャルを評価し「何度でも改訂して真の傑作へと練り上げていってほしいと切に思う」と期待を示している。

    それを受けて、というわけではないだろうが、今回の再演にあたり脚本は大きく改稿された。風船爆弾そのものをより詳細に描きながら、モチーフとしても最大限に活用し、作品全体のすみずみにまで行きわたらせている。登場人物についても、特に学徒動員された女子学生と、その上官の心情をより輪郭のはっきりした形で浮かび上がらせた。さらに狂言回しとしての新聞記者(初演では学校職員)により多くを語らせ、観客の思考実験をサポートしてくれる。

    また長谷川氏自身が演じる立命館大学の学生は、初演では物語の中心的な位置を占めていたが、今回のバージョンでは他の登場人物に強い刺激を与えるジョーカー的な役割に専念。それによりむしろ印象が強まっている。

    初演では観客を笑わせるシーンもふんだんに用意されていた。例え立命館大生の、女子学生に寄せる思いが一途すぎて、ほとんどヘンタイの域に達してしまう場面。つかこうへい作品で言えば「飛龍伝」の山崎機動隊隊長や、「幕末純情伝」の坂本龍馬を彷彿とさせ笑いを誘った。いかにも「演劇的」で、個人的には大好きだったが、このあたりが今回はばっさりと削除された。

    では演劇的でなくなったかと言われれば全く逆で、そういう「いかにも演劇的」な演出を排除したことで、もともとこの作品が持っていたより本質に近い「演劇的」な部分があぶり出されてきた。

    この作品の演出の妙は、一人の役者が令和の時代と昭和の時代を行き来しながら同じ人物を演じている点だ。表現のための時間・空間が限定されているということは、演劇というメディアの最大の弱点であると同時に最大の武器でもある。それによって、Photoshopのレイヤー構造のように、ひとつの空間にさまざまな時空を重ねることができる。その強みを「カミと蒟蒻」は最大限に生かしてきた。

    先に書いたように、自分がこの作品から受けた命題は「人の、社会の思考はどこでどのようにズレるのか」だ。だが、この限られたステージの上に様々な時間軸が同居することで、そのズレが相対化されていく。風船爆弾は人々のズレた発想から生まれた。しかしそれを「滑稽だ」と考えることは果たして正解なのか。戦争と平和、狂気と正気、どちらが正しいのか、どちらが幸せなのか、舞台を凝視しているうちにだんだん分からなくなってくる。これが観ている間とても居心地を悪くさせてくれるのだが、そのキモチ悪さが何ともキモチ良い。

    さらに、そのキモチ良いキモチ悪さは終演後まで引きずらない。観劇後に残るのは清涼さのみだ。これは脚本や演出の力でもあるだろうが、出演者の演技の真摯さによるところが大きいのではないか。どの俳優の演技も悪い意味で「演劇的」でなく、体内で消化された自然な言葉としてセリフを発していた。

    演劇的であって演劇的でなく、キモチ悪さがキモチ良い。文字通りコンニャクのような、何ともつかみどころのない、しかし何とも言えないうま味のある作品だ。今後も再演を重ねて進化していくのを楽しみにしたい。

ミニシアターのような独立性と表現性の高い舞台を追求。

社会人劇団として、同年代の大人の観劇に耐えうる社会性と娯楽性を追求した舞台を目指しています。
一見分かりやすそうでありながら、すべては分からない。
映画で言えばシネコンのような大衆的なものではなく、
ミニシアターのような独立性と表現性の高い舞台を追求しています。

シアターリミテ 主宰 長谷川 源太