シアターリミテ

シアターリミテ|京都を拠点に活動する演劇集団

シアターリミテ

お客様の声 〜見学商売より〜

  • 硝子の檻の共犯者

    公演の様子

    演劇集団「シアターリミテ」の公演は2019年に水戸で観ていたが、その新作が上演されるとのことで、本拠地・京都へやってきた。

    新作のタイトルは「硝子の檻の共犯者」。ナチス政権下のドイツで、かのゲッペルス率いる宣伝省に勤めていたひとりの女性は、ナチスの罪を問われ得るのか。その命題に彼女自身の視点で迫っていく物語だ。

    あくまで偶然ではあるが、上演のタイミングが絶妙である。何しろ今は国内でも海外でも、ナチだヒトラーだという言葉がさんざん飛び交っている。「ナチって言うほうがナチなんだぞ」みたいな子供レベルのマウントの取り合いまで発生する始末だ。

    もっとも、この舞台はナチスやヒトラーの罪を描こうというものではない。国家が起こした犯罪(戦争が犯罪に当たるかどうかは別の問題として)の責任を、その意思決定の中枢にいた人間以外に問うことはできるのか、あるいはなぜ問われることになるのか、といった思考を観る者に促す。

    主人公は宣伝相に勤めてはいるが、別にプロパガンダを企画していたわけではない。ゲッペルスの顔など見たこともなく、その仕事は主にタイピングだ。そういう市井の人が「ナチスの協力者」という現実を突きつけられる。

    普通に考えれば、彼女にナチスの罪を問うのは酷だろう。だが戦後のドイツ、そして世界によるナチスへの断罪は苛烈だ。どんな昔のことであろうと、どんなに些細なことであろうと、許されることはない。

    仮に、それが誰にも知られていない過去であったとしても、自分自身の目からは逃れることができない。その苦しみは自らを「ガラスの檻」に閉じ込めることになる。

    劇中、彼女は反論する。「自分に罪があると言うのなら、あの時のドイツ国民すべてが共犯者ではないのか」。

    そう、その理屈は正しい。

    歴史の授業を真面目に受けた人であれば、ナチスやヒトラーが単独であれだけの状況を作り出せたのではないことはわかっている。そして世界は100%の悪と100%の善で塗り分けられるものでもないことも多くの人が知っている。

    なのに、それを分かったうえで、人は絶対的な悪と絶対的な善を想定して思考し、議論する。「お前たちはナチだ」「あいつはヒトラーだ」と指さしあう。

    なぜなら、それが分かりやすいからだ。複雑な状況を把握する手間もかからず、面倒な理屈を説明する必要もなく、どうにも割り切れないモヤモヤを抱えることもなく、なるほど世界はこうなっているのだ、と「分かった気になって安心する」誘惑に勝てないからだ。

    しかしそこに取り込まれたとき、人は「無関係」な人までも傷つける刃を知らないうちに手にすることになる。宗教と戦争の関係を引き合いに出すまでもなく「分かりやすさ」は人類がずっと抱えてきた大きなダークサイドでもある。

    かつて偉大なジェダイマスターであるヨーダは、ルーク・スカイウォーカーの「では暗黒面のほうが強いのですか?」という問いに何と答えたか。

    No,no. Quicker,easier,more seductive.

    そう、強いのではない。手っ取り早いのだ。易しいのだ。そして魅惑的なのだ。

    ナチスやヒトラーとは真逆にある、時として「正義」の顔をしたダークサイド。この「硝子の檻の共犯者」を観ていて、自分はそこに戦慄を覚えた。

    主人公が軍人ではなく、言ってみれば普通のOLであることも、その恐怖をダイレクトに伝えるのに一役買っている。テーマ的には『私は貝になりたい』や、劇団四季の『南十字星』と少し通じるかもしれないが、軍人が主役だと、どうしても戦争そのものに対する感情が先に立つし、BC級戦犯に対する裁判のずさんさや、そもそも戦争の勝者が敗者を裁く「戦犯」の法的な正当性といったことに考えを引っ張られてしまう。

    本作の広報写真には、ナチスのSSのような服装をした人物が写っていたが、実際の舞台には登場しなかった。どういう理由か分からないが、そういう記号的なものが廃された「普通の人」たちだけの群像劇として成立させたうえで、このテーマを描いてみせたことがこの劇団の底力を証明している。

    本作の広報写真には、ナチスのSSのような服装をした人物が写っていたが、実際の舞台には登場しなかった。どういう理由か分からないが、そういう記号的なものが廃された「普通の人」たちだけの群像劇として成立させたうえで、このテーマを描いてみせたことがこの劇団の底力を証明している。

    劇場内で多くのことを考えさせられ、劇場を出て現実世界に戻ると、そこには同じ光景が繰り広げられていた。

    客観的に見ても、他国に「侵攻」している現実がある以上、ロシアは国際的な非難を受けてしかるべきだろうし、苦しむウクライナの人々に手を差し伸べるのは世界が果たすべき義務だ。

    しかし、芸術家やスポーツ選手までにその批判の矛先が向けられているのは正しいことなのか?

    確かにプーチンは独裁者レベルの強権を持っているが、これを「プーチンの戦争」で片づけていいのか?

    戦争という悲劇を目の当たりにして、「分かりやすさ」の安心感を求めたくなるのはわかる。しかしそれが、大勢の人を「硝子の檻」に閉じ込めてしまう。そして、今度は檻の外にいる人々が共犯者になるのだ。

ミニシアターのような独立性と表現性の高い舞台を追求。

社会人劇団として、同年代の大人の観劇に耐えうる社会性と娯楽性を追求した舞台を目指しています。
一見分かりやすそうでありながら、すべては分からない。
映画で言えばシネコンのような大衆的なものではなく、
ミニシアターのような独立性と表現性の高い舞台を追求しています。

シアターリミテ 主宰 長谷川 源太